目覚めよの声が...(宮田八郎さんのドキュメンタリーも観たよ)
ブログかあ、書きたいけどなあ...と思い続けてあっという間に一年以上。
Facebookやインスタの手軽さについついそっちでポロポロと書いてばかりになりました。
元気だったか?いやお世辞にもそうではなかったです。
おそらく一時は世間様からみたらエルドラドみたいなところに潜り込めたのかもしれませんが、私には合わず。
結局はいばらの道ですよ。
でもなかなか味わえないことを見聞きできたとは思えます。
来年50ですが結局何もできないまま人生は終わるんだなと思ってますが、それが身にしみてわかっただけでもちょっとは成長できたんじゃないですか?
あと、自分は周りの誰もを尊敬するような思考回路を持っていましたが、そういうのはやめることにしました。いや、早めに人を判断して見下すのもありなのかなあって。自分を追い詰めるほど、相手の良いところを探そうとしなくてもいいかなって。
結局はいじめられっ子体質なんですよ、自分は。いじめられっ子とまでは言わないけど、いいことも悪いことも聞かせられたり、指摘されたりする。心も許してもらえるけど、逆に舐められたりもする。いい人ばかりじゃないし、本当にクズな人間が近くにいると不幸になってしまうんです。早くそういう人とは手を切るか、はっきり言わないとならない。
50目前で何言ってるんですかね、私。
最近は神も仏もいないんだろうなとどこかで思いつつも、根っからのオカルト、スピリチュアル好き(心酔するんじゃなくて、見たり聞いたりするのが好き)なもんだから、信じたいのですよ、そういうの。
伊勢神宮行った時も、ここはただの森だけど、太古の昔から人々が神の森として作り上げて、今もそういうことになっているんだなって思ったし。
....で、なんかそういうの否定したりすると、信じていた人の心が鬼になって祟られそうじゃない。
反面、これこそがスピリチュアルなような気もする。
どこかの霊能者の人が、パワースポットこそが、人の欲が寄り集まって汚れていると言っていたけど、あれこそが本当な気がするのね。
結局人の気持ちって怨念にもなれば、神聖にもなる。
私たち一人一人が神様っていうのは本当な気もするしね。
人は死んだらどうなるんでしょうねえ。
こういう気持ちもチリになるんだよなあ。
さっき録画していた宮田八郎さんの映像を観ていたけど、自分が山に惹かれるのって、多分、山や自然はむき出しだからなんじゃないかなあ。自然は結局は魂としては「無」で、そこに勝手に人間が投影している思いしかないでしょ。その投影しているものに意味を与える実感を経験を通して得たいということなんじゃないかなあ。
宮田八郎さんはなぜ山に人は登るのか?という問いに「生きるため」って答えを出していたようですが、共感するなあ。
まあ、登りに行って死んでしまう人もたくさんいるんだけどね...そして宮田さんは山男なのに海で遭難して亡くなってしまった。
父が逝って、大切な方も1月に亡くなって、そして慕っていた大叔母も先日亡くなって、せっかく回復してきた自分の心もしぼみそうだけど、残りの人生はもう少しまともにしないとね。
今年も11月。今年は白馬と唐松と登れたし、コアラも神戸と淡路島に見に行けたし。
そろそろ始動しますかね....よっこらしょ。
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