いやいやいやぁ
怒濤の4月、5月が過ぎ、過呼吸気味から息切れくらいに落ち着いた6月。そして又怒濤の7月がやってきました。
正常にものが考えられないくらいになっているのですが、働いている時はなんとか社会人っぽく振る舞えているようです。ひとときプライベートの時間になるとなにも出来ない感じになってます。とにかく何も考えたくないと言うか、考えられないと言うか。
同僚には金は要らないから辞めさせて欲しいとつぶやきながら遅くまで会社にいる人と、なんでもやるから金をくれと言いつつ定時で引き上げて行く人がいます。
どっちにしても会社で思った事を口に出来る人が羨ましいです。
誰がみても無能のくせに必死でこなそうとしている自分がくだらなすぎて嫌になります。
ここ数年はせっかく貰える夏休みも不発におわり、そして今年の夏休みももう不発で終わりました。
それでもまあのんびりできたし、わざわざWebのお友達が旅先に自分に会いにきてくれたもすごく嬉しかったし……不発なんて言ったらバチが当たるわ。帰ってきたら途端に指の湿疹が悪化して辛くなりました。旅先から帰れば蓋をしていた色々な事がまた現実になるからかも。
つらいつらいと言っているのは、自分の努力不足と、努力ではどうにも出来ない力不足なのはわかっているさ。変えられない運命なのか、実は変えられる運命でも要領の悪さでやっぱり変えられないのも、これまた運命なのか。どっちにせよ自分の何かが変わらないといけないのは間違っていないだろう。
とはいえ、仕組みを判っていてもどうすることも出来ないというのは、相当に追いつめられるものです。
どうせ一度しかない人生です。
とあるスピリチュアルな人は、死んだ後の世界は恐ろしいほどの「無」だそうで、愛とか情とかっていうのは生きている間だけらしい。最近それが正解だろうなと思うようになりました。泣いたり笑ったり人の命を奪うほど憎んだりできることは、「無」から見れば滑稽なほどの幸せなんでしょうね。そうして自分の首を絞めるくらいの苦しい感情でさえ「無」の世界ではHappyで味わい尽くしたいものなんだろう。
そう考えれば少しは気が楽になるかな、と思ったけどそうでもないな。「無」の世界があっちにあるうちは、あじわい尽くそうと思うほどその余裕なんてないよね。
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