1年を迎えて思うままに綴る
ネットで震災についていろんなコメントを読むと、なんというか、いわゆる言葉遣いがひどくて辟易するものがある(特にTwitter)。内容そのもの読みにくいんだけど、それより気になるのが言い回しというか言葉の使い方。わざと砕けた言い方するのもいいけど、最初から最後まで「クズ」「糞ワロw」「まじうぜー」「テメー」「チャラい」「アホ」……こんな単語が散りばめられている。その間に「偽善」「募金」「金」「同情」「お涙頂戴」などの単語が挟まっている。これが私より少々若い女性だったりすることも多く、30過ぎたら顔と暮らし方は、心して責任もたないとこっぱずかしいことになるなぁと思う。
ネット上じゃなくて現実に喋っているときにも、ご飯を食べるというときに「食う」「食った」と言う女子(女性)が結構多い事が最近気になっていたんですが、中年女子の乱れた言葉遣いは若い子よりも汚く思えます……っていうのは所謂「今の若いモンは」と同じなのかなあ。
もとい、震災です。今日で丸一年。
節目とも思っていたので、今日の14時46分はテレビで追悼式を見て黙祷しました。今までも子供の時には終戦記念日や原爆記念日などに黙祷してきましたけど、今日の黙祷は自分も多少なりともあの地震を経験したこともあり、今までとは違った気持ちで目を閉じました。1分間、私の住んでいる辺りも信じられないほど静まり返っていたので、私と同じように、目を閉じて心をあの日に向けた人がこの地域もたくさんいたのでしょう。
あの日を境に人生そのものが大きく変わった人もいれば、物質的には大して影響がなくとも精神的に大きく変わった人、変わったようでいて何も変わらなかった人など色々だと思います。私は子供の頃から書く事も読む事も話す事も好きで、言葉そのものが好きでした。大人になるにつれ、どのような心の動きがどんな言葉を選び出すのかと考えるようにもなりました。でもこの震災ではどんな言葉も無力なんだと思う場面が幾つもありました。あの揺れ、信じられないような津波の映像、愛する者を失った人の悲しみ、映画の中でしか見なかったような爆発を見た時の衝撃、放射能への不安、大切な人と再会できた喜び、他人から手を差し伸べられた時の感謝の気持ち……そういう心の動きを表せる言葉なんか存在しないのだと思い知らされました。心が粉々に壊れるほどの悲しみ、ショック、高揚、興奮……極限の状態やそれにさらされた人々を目の当たりにし、度々やってくる余震に自分も同じようになるのかもしれないという不安に苛まれた1年でもありました。人間の弱さと強さ、狡猾さ残酷さと情の深さ、二面性を見る事も多かったです。
オカルトやスピリチュアルな人々の間では、アセンションやら高次元にあがるやら言われています。それらが本当かどうかなんてわかりませんけど、この震災と二次災害の原発事故で、いままで考えたり感じなかったりしたポイントに人々が目や心を向けるようになったことは確かなようです。
この先、震災をきっかけに起きたことの処理に、一体どれ位の時間がかかるのかわかりませんが、些細な事でもいい、自分ができることを少しでもしていこうと気持ちを新たにした一日でした。
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