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BSフジの「BSフジ LIVE PRIME NEWS」でひと月位前に「宗教・スピリチュアル」をテーマに取り上げていたのをたまたま興味深く観た。
(……今検索したら、非常に簡単だが内容が公式サイトにまとめてありました。ご興味のある方はこちらをどうぞ。)
その時にコメンテーターの一人である島田裕巳さんがなかなか面白い意見を幾つも繰り出していた。そのうちのひとつに「日本人はこれからの時代こそ無宗教である事を誇りにした方がよい」という内容のものがあった。日本人ほど宗教や信心について大らかで寛容な国民はあまりいない。神道も仏教もキリスト教も人生の節目で同じように祭壇の前で祈るような国民性を恥ずかしいと思う事があるかもしれないが、これこそこれからの時代に必要な寛容さではないか。それは日本人が宗教というような単位で物事を見ずに心を主体に考えていたからだ」という意見だった。(……ここだけ切り取るとなにがなんだかわからないかもしれない。)ひとつの神のみを信じ、他の神や宗教を否定することはこの先は不要であり、あらゆる神や宗教、信心に共通する真理について共有し合う事が重要というようなことを語っていた。
さらに、ダライ・ラマがこれほど人気があるのは彼が亡命し追われたからこそだ、というような事も言っていた。チベットから離れることで信心も冷静になり、それによりさらに他の宗教と対話している今のダライ・ラマの姿勢につながっているのでは……と。
2001年にWTCに旅客機が2機突っ込んだあの映像はあまりにも衝撃的でした。
もう9年。早いものだ。
あの飛行機にもたくさんの人が乗っていて、ビルにもたくさんの人が働いていて、事件が起きてそれを助けるために出かけて行った人がいて……その多くが一瞬にして亡くなった。日航機の事故も衝撃的だが、WTCはテロという人間が意志をもって起こした事件。コーランにだって人の命を奪って良いとは書いていないと聞いた事がある。イスラム原理主義の「原理」はなにに根ざして解釈しているのか? 人間が祖先から連綿と受け継ぐ中に「憎悪」というものがあるのだという事を、この事件を考えると突きつけられる。日本に生まれ、おそらく祖先にも他の国籍を持つ人はいないだろう私にはちょっと理解が出来ない。
憎悪という炎を燃やし続けて、何かを成し遂げる労力を考えると通常ならばもっと違う未来のある事に繋げられないのかと思ってしまう。根源的なものが違う気がします。同じ人間なのに、どうしてそのような思考回路になれるのか。
人間にはきっとドロドロとして真っ黒な、とてつもなく強大な悲しい力が眠っている。自分の中にもあるのだろうけど、自分はそんな力に気づかないまま最期を迎えたい。そしてその力を源に動き、渦中にいる人々はどんなにつらいだろうと悲しくもなります。そうして生きている人は自分の定義する戦いに勝利した時だけ心から笑えるのでしょうか。そうだとすればなんだか本当に悲しい。
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