ほんの独り言
神様という存在があれば、どんな姿を想像する?
優しくて慈悲深い姿か、意志が強く正義感に満ちた凛とした姿か。
最近思うが、もし「神」いう存在があって、人に似た姿形をしていたとしても、それは喜怒哀楽という感情を全く持たない存在なのではないか。温もりも冷たさも持たない存在。
空とか、無とか、虚とか……字面を見るとむしろマイナスに感じられる言葉が似合う、たぶん宇宙空間のようにまったくなにもない存在……こういう表現自体があり得ないのだが……そういうものが神様なんではないか。
人間がそういう存在を見た時、どう感じるのか。畏れなのか癒しなのか。
ある人はその存在は神ではなく悪魔と見るのかもしれない。
いわゆるスピリチュアルとか宗教観などには、人間ひとりひとりのなかに神が宿っているという考え方もあるようだが、だとしたら神様はなぜ感情に任せて行動する存在を造るのか。喜怒哀楽では足りずに欲や悩みなどもプラスして人を送り出し、そして自分の元に呼び戻すのか。
全て手中にある神様にとって、そんな感情こそが、その感情に突き動かされて生涯というものを駆け抜ける存在こそが、憧れであり、もっとも素晴らしく思えるのかもしれない。
神様の夢を託されたのが自分たちで、祖先で、子孫だと考えると、未来には不安しかないように思える人生も少しは楽しく思える気がする。
私たちは笑い、泣き、楽しんだり、痛んだり、傷付け合ったり、悩み、憎悪し、絶望し、また希望を見い出し……そういう無数の感情に翻弄されて生を渡る。
時に、もてあますような感情が「神様の希望」であり「贈り物」で「人に宿された神様の欠片」なのだろう。多いに悩んで、落ちて、笑って泣いて……と楽しむべきなのかもしれない。
たまに感情の大波小波に飲み込まれて溺れてしまうけれどね。
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