無題
最初に聞いたときに想像した情景。
お母さんがトイレから出てくると子供の姿が見えず、心配で泣きそうになりながら探す。周囲の人にも協力して探していて元のトイレのそばまで来ると、子供がふざけながらお母さんのところへ出てくる。心配で胸がつぶれそうなのに、ふざけたまま驚いただろうと母親をからかう子供。お母さんの心にあった心配は一気に怒りに変化して………
なんて事だったら怖いなって思っていたら、悲し過ぎる結末が待っていた。
ウチの長兄も重度の障害者だ。昭和30年代の頃、生後数ヶ月の兄はなぜか夜中じゅう火がついたように泣き続ける時期があった。そのころ寮に住んでいた両親は周りの迷惑になるからと、一晩中交代で兄をおぶって隅田川の河原を散歩し続けた。背負うと泣き止んで眠るから。
「何度も川に飛び込んで、ふたりで死のうと思った」
母がいつか言っていた。無理心中ってやつだ。
母を止めたのは、もしそんな事を自分がしたら、後に残された人たちがどんな事になるかってことだったそうだ。そもそもそんな気持ちになる人は、心中だの殺人などやらかす事はできないんだろうけど。冷静な部分が残っている訳だからね。
でもポイントはやっぱりここかな、と思う。
自分以外の人間や物事とのつながりを意識できるかどうか。
親や家族、親戚、近所とのつながり、友人とのつながり……深ければ深いほど、何かをとっさにやらかす前に思い出すだろう。自分しか見えない、自分と「何」かしか考えられない、それを取りまく統計上の情報としか比較できない……濃密過ぎる閉ざされた関係や考えしかなければ、ある一線を超えるのは容易そうだ。
周りに相談できればという声を聞くけど、相談できる雰囲気があったのだろうか、心を開くのは難しい、けど、心を開かれる方はもっと大変なのも事実だ。開かれる大変さや面倒を知っているから、みんな「個」を求めたり確保できるようにして来た。
しかし、ひとりは気楽だけど、それだけ負うべき荷物は大きくて重くなる。
なくなったお子さんには軽い障害があったらしい。
軽い障害、母親に取っては軽いかどうかは関係ない。
私はこのお母さんを擁護する気なんて全然ない。理由はどうあれ、我が子を殺した殺人者である事に変わりはないから。
ただ、発生から母親逮捕までの数日間、この関連のニュースを読んで、人とのつながりとか、人間の持つキャパシティの問題とか、地域の問題とか、子育ての難しさとか、ストレス発散の方法とか……大きな事から小さな事まで色々考えさせる事件だった。
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