ミニマム&マキシマム…思うがままの駄文
私の中でいつも考えるようにしようと努力している事。最小と最大のバランス。
この前「科学未来館」に行った時も、やっぱり思ったのですが、現代ってものすごく内側、つまりミニマムな方向に考えが行っていると思う。個人主義とも言えると思います。一方で、そういった流れでは解決できない問題が表面化している。ミニマム(個人の希望等)を突き詰めて行けば必然的にコミュニティは崩壊する。コミュニティとはつまりマキシマム…単位はバラバラだけどね。家族、町内、国、地球、人類、生命体…みんなコミュニティ。しかしマキシマムの幸福を追求するのは、結局ミニマム単位でこまごま我慢をしなければならないからやっぱり大変。
個は大事だよ。誰だって自分という個を大切にしたい。自分を大切にできない人は、結局はコミュニティ単位での問題もきっと生むのだと思うし。
個を大切にできる範囲って、本当は結構小さい、または時間的尺度でいうと「短い」のかもしれないなあと言うのが、最近の自分の中の答え。またすぐ変わるかもしれないけど。
昔は生活や生きる事でいっぱいで、個を顧みるなんてことあまり無かったのかも。裏返せば、マキシマムの一部であることを、人はみなどこかで理解していたのかもしれません。うまく説明できないけどね。
どうやったら、そういう視野を、今、持つ事ができるのでしょうか? 科学が発達してしまい、便利な世の中になってしまったら、過去に備わっていた自分の座標を知る野生の勘は、もう、現代の私たちは持てないのでしょうか?
昔、高校生か中学生のとき、フロイトの理論を教えてもらった事がある。他人と自分は無意識下ですべて繋がっているという理論…他人であって自分、自分であって他人。これって自分の体が細胞というまた別のレベルの生き物の集合体であると考えると、少しすっきりする。生命を維持する為に、いろいろな生物を食べる。お互いが生きるのは地球という星の上…考えればお互い同じ船に乗った乗組員。ミニマムからマキシマムへ。そして脈々と受け継がれて行く遺伝子。
私の性格、運動能力、体質…これらのプログラムは過去からの贈り物。小から大へ、過去から未来へ。
自分を定義する意識はどこからくるのでしょう。意識をつまり魂と呼ぶの??
その意識さえ、過去からのプログラミングに左右されているらしい。それでも今の私はオリジナルだ、多分。
個の要望をすべてかなえるのは素敵なこと。しかし個というとてもミニマムな単位は常にコミュニティという、とてもマキシマムな一部という事を、常に頭に入れなければならないのではないかな。ミニマムな幸福を追求して生じる歪みはすぐにマキシマム単位のコミュニティには反映しないけど、該当コミュニティを確実に蝕んで行く。
Imagine…どんなに制約されていても、心は自由。過去からもらった私の遺伝子はオリジナルの私を豊かにするため、今日も想像する。内側への想像と、外側への想像。原子、私、宇宙の向こう側。個の幸せの探求に疲れた時は想像が自分を救う事を、昔の人たちは知っていたのかもしれません。
想像は自分を幸せにする。あらがえない運命やコミュニティ単位で鬱積する不満を解消する為にも想像をやめないでいたい。相手を思いやる心も想像だから、結果思いやりも持てるのかもしれません。バーチャルではなく、血肉を伴った想像ができる世の中が必要なのでしょう。
クーラーの設定温度調整に伴う『個の幸せ温度と男性コミュニティの幸せ温度の差』が生み出した哲学……今日は脈絡のない文章ですみません。
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